
凄いもん見ちゃった。
東京文化会館にて二期会オペラ公演 リヒャルト・シュトラウス作曲「サロメ」見てきました。
現代オペラ演出界最大の鬼才、ペーター・コンビチュニー版。待望の日本初演です。
コンビチュニー信者のマイミクに熱烈に誘われて観劇しました。
http://www.nikikai.net/enjoy/vol283_02.html
あまりにショッキングな演出ゆえ、海外でも賛否両論
チラシに「チケット購入に関して」
一部にセクシャルかつ常軌を逸するアヴァンギャルドな表現を含んでおります。予め御了承ください。
との注意書きがあるのです!
今日も「ブラボー」と「ブー」が半々くらいかな?聞こえました。
その舞台は「衝撃」の一言。
サロメのテキストを大胆に読み替えた新演出。
第三次世界大戦後、核シェルターの中の人々。
最後の晩餐を思わせる舞台セット。
閉ざされた空間、閉ざされた未来。
行き場のない思いが渦巻く息詰まる世界で、彼らは人間性を失って行く。
目を覆うような惨劇。淫蕩に耽る女。
限りなく淫らで、陰惨。非道徳な場面を描く事で、「自由への希求、愛し合う事の素晴らしさ、未来への希望」を表現するという逆説。
破滅へ向かう世界に育った少女サロメは、あらゆる退廃的な行為を教え込まれるが、彼女が唯一知らないもの、それが愛だった。
人々が失った文明文化の象徴である預言者ヨカナーンに出会い、愛する事で、彼とともに生まれ変わり、新しい世界への扉を開ける。
酸鼻を極めるグロテスクな惨状が繰り広げられているのに、嫌な感じがしないのは、演じるのがオペラ歌手だからか。
(オペラ歌手は、その並外れた発声によって一種の神性を帯びる。
タカラジェンヌは、化粧、外観、様式化された演技や性を超える事で。
オペラ歌手は、「人間楽器」となる事で。舞台上で架空の存在になる)
コンビチュニーの投げかけるテーマが真っ当であるからか。
不思議と「嫌なものを見せられた」という気持ちにならない。
とにかく「凄いもん見ちゃった」だ。
なにがなんだかわからない!に近いけれど、とにかく圧倒的に「面白い」「美しい」「痛い」
劇的な舞台空間に居合わせた!という感動でいっぱいです。
難解な表現が多く、私に理解できてるのは一分もないであろうことは承知しているが、終演後のアフタートークと合わせて「なるほど!」と思えた事をメモしておきます。
http://www.nikikai.net/enjoy/vol284.html
※グロ表現ありますので、無理な方はお読み下さいませんように※
★閉塞されたシェルターの中とは★
現代社会そのものを表している。
西洋文化によって栄えた、この時代は終焉を迎えている。私達が作りあげた文明の「最後の晩餐」に今、私達は立ち会っているのだ。
★残虐的、セクシャル、ショッキングな表現を多用したのは★
100年前、シュトラウスの「サロメ」が初演された時に観客が受けた衝撃。それと同じだけの驚きを現代の人々にも味わってもらいたかった。
初演をそのまま再演したのでは、現代の観客には伝わらない。
作曲された当時、シュトラウスは世界に何を訴えたかったのか?それを理解し、現代的な方法で甦らせる事。それが私にとっての「演出」という仕事です。
斜陽化の一途をたどる今日のオペラが生き残っていくには、「今」上演する意味のある作品として新しい解釈でテキストを読み直す作業が必要であると考えます。
★料理女に殺されたサロメが解体され、遺体を皆が食べつくすカニバリズムの場面(めっちゃ美味しそう)★
@キリスト教の聖体儀式という意味での喰人
@西洋文化圏外で見られる喰人「サロメと一体になりたい。サロメになりたい」という願望による行為
@現代社会にも存在する「魂の殺人」という意味での喰人
「とても見てはいられない!惨たらしい!」と(いう意味で)幕が閉まり、また何事も無かったように冒頭の状況に戻るのは、喰人シーンが幻想であった事を表す。
★殺されたナラボートの死体のズボンを脱がせ死姦するシーン(めっちゃ楽しそう)★
止めようとする女達が舞台からはじき出される事で、長い間、社会からはじかれていた女性を表現した。
ネクロフィリア(死体性愛)に興じる男達は「性」の興奮を(女性を無視して)共有している。
と同時に、男性だけで「社会」が作られている。という事実を風刺した。
★ローブの踊りの場面の演出の意図は★
「覗き見シュミ的な」ストリップをするサロメを描きたくなかった。
男性からの性的な視線を受ける「被」存在としてではなく、エロティシズムを満足させる「it」でもなく
自らの手で、意志で、愛を手に入れる女性として描き、サロメの「聖」性を表現したかった。
常軌を逸した人々の中で、「愛の神秘」を求めるサロメは、ただ1人の「まともな人間」である。
★サロメのダンス後、突然に登場する白いドレスの少女は?★
「愛」を知った、これからのサロメ自身である。彼女の中の「少女性」。「聖」性がイメージされる白。
または、腐敗した現代社会が夢見る、「美しい未来の世界」の具現としての子供。
私(コンビチュニーさん)が信じて(望んでいる)この時代が終焉を迎えた後に来たる、次の時代への期待。
★切られた自分の首を持ったヨカナーンと、サロメが相対するシュールなラストシーン★
切られたヨカナーンの首は、過去の彼を表す。
ヨカナーンは「制度」「宗教」「常識」など、現代社会が妄信している価値観そのものを表すキャラクターであり、その彼がサロメと愛し合い、人としての生き方を選んだとき、古い社会は死んだのである。
舞台セットが後方に退き、現れた新しい何も無い空間で見つめあう二人は、閉塞されたシェルターから出て、新しい「愛」の世界に旅立った事を表す。
みなが希求していたシェルターからの脱出口は、思わぬところにある。それは私達の心の中にあるのかもしれない。
「人と共にいたいと思う」「愛し合いたい」という思いは、人間にとって最も大切なものなのだから。
…いやいや。もう
ガツンと。打ちのめされるお言葉の数々に、ただ手を合わせて拝み伏すのみ。
わからないなりに貴重なトークを傾聴させて頂きました。
いやぁ〜。ショックが醒めやらぬです。
宝塚ファン的には
「絶望」を描く事で、枠外の「希望」を観客に強く意識させる。手法は
オギーの「凍てついた明日」を思い出させるな。と。
オギーノスタルジー
死にかけた世界の真ん中で、愛を信じて、諦めず叫ぶ。コンビチュニー先生に敬礼!!
